18歳以降に出会うということ

20歳になった夜、友人同士が集まって小さなお祝い会を開いてくれた。日付が変わって乾杯をして、一息ついて、真向かいに座っていた子に「20年間どうだっ た?」と聞かれた。唐突な質問にその場はひとまず笑いに包まれ、そして結局私は、20年間の歴史をひとり語ることになった。どんな家に住んでどんな家族に 囲まれどんな幼少期を過ごし、どんな小学生で、どんな中学生で、どんな高校生だったか。集まってくれた友人はみんな18歳以降に知り合った人たちで、それ なりに今まで色んな話をしてきたけれど、知らないことばかりだったと思う。驚かれたり感心されたりと反応は様々だった。

18歳以降に出会 う人と、18歳以前から知り合いだった人には、明確な線引きがあるのかもしれない。中学生、高校生の頃というのは今いる友人よりも遥かに長い時間を一緒に 過ごし、思春期のお互いを知っている。部活とかクラスとか、今じゃ考えられないくらい小さなコミュニティの中、膨大な時間を共有する。あっという間に過ぎ るけれど、信じられないくらい濃い。どちらが大切とか重要じゃなくて、これまでの自分を知っているかどうか、というのは結構重要なんじゃないかと思う。

例えば、いじめをした/された経験があるかどうかなんて、普段過ごしていたら話すことはない。最近ではいじめられた経験があることをむしろステータスのように語りだす人もいるけれど、よっぽどのことがない限り話題には上がらないだろう。

元ヤンキーかもしれないし、いじめられっ子だったかもしれないし、バスケ部だったかもしれないし、美術部だったかもしれないし、内気だったかもしれないし、こじらせていたかもしれないし、学級委員だったかもしれない。

こ ういうのは18歳を過ぎると途端に、自己申告になる。申告されれば自分の学生時代を振り返って、ああいうタイプだったのかな?と経験に当てはめる。言いた くない過去を隠すことだって、笑い話にさせてしまうことだって容易い。クラスメイトだったら否応にもその瞬間を見ることになるし、学校は生活感に満ちあふ れているので、人格がだだ漏れてしまうものだ。

「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことだ」アインシュタインの言葉 が好きだ。18歳以降に出会う人には、その人の常識がきちんと備わっている。18歳以前に出会った人は、まさに自分の常識を作り上げた人かもしれない。も ちろん18歳以降も色んなことがある(だろう)し、人はぐるぐる変わっていくんだろうけれど。

知らないことや分からないこと、見えないことや理解しあえないことがたくさんある。しかもその常識を0から100まで突き合わせる機会も手段もない。分かり合えないを大前提に、知り尽くすというのは不可能に。こういうの間違えると、おそらく痛い目に合う。いつも惚れ直すくらいがちょうどいい。