意識的な縁の話

一昨日の夜、立ち飲みワインバーで出会ったおじさん達には、私との縁があったんだと思う。金曜夜にひとり作業しているのがたまらなく嫌になって、町へ繰り 出した。次の日でも良かったのに、どうしてもこれから行きたかった。あの店を選んだのも特に理由はない。山陰中央テレビのおじさん、ホテル支配人のおじさ ん、老舗銘菓のおじさん。これから先ほぼ確実に再会することはないだろうけれど。

その中のひとりとFacebookでお友達になった。今 回に限らず、旅の途中で出会った人とSNSで繋がることは多い。国内外問わずに出会いは延長していく。再会の兆しがほとんどなくても、縁の軌跡として残し ている。もし今Facebookがなくなったら、私と誰かの縁は記憶に沈んで浮かび上がらないだろう。

角田光代さんのエッセイに結婚と縁について書いた章があった。以前Twitterにも引用したけれど、「すごく好きなんだけど縁のない人というのはいて、会おうと努力しても疎遠になる。逆 に縁のある人は行動を起こさなくてもどこかで会えるし、関係は切れない。結婚というのは誰かといたいという強い意志だから、縁ではない」という話だ。

それで思い出したのは、小学校のクラスメイトと、ばったり高田馬場で再会したことだった。お互い「なんでここにいるの」となって、ちょっと待ってちょっと 待って、と、改札の横で立ち話をした。彼は早稲田の学生になっていて、私は高田馬場で友人に会うところだった。私たちの地元は横浜の片田舎にも関わらず、 まさか高田馬場で会うとは。飲もうよ、といって、共通の友人も呼んで後日飲みにいった。すごいことだったなと今でも思う。

しかしまあ、縁の押し売りは窮屈だ。基本的に人と人が出会うのは、積極的な意思の上に成り立つ。人と人が深まるのも、互いの努力の上に成り立つ。
特別視するからひずみが出ることは多い。環境も人も時間も右から左へ流れていくのに、わざわざエネルギーを逆向きに使ってまで留めておくべき関係ってあるのだろうか。出会う、深める、繋がるの波長がきちんと合っていれば、右から左へ力は滑っていくものだと思うのだけれど。

20年の短い日々の中でも、疎遠になった人がたくさんいる。淘汰された関係がたくさんある。縁というのはやかましく、無意識な選別に口を出す。それに悩んだり辛かったり勘違いをしたりする。もっと流れるように、かつ意識的に。時間に逆らうことが1番かっこ悪いと思う。


 

恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 (角川文庫)

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