若さに他人に経験に敬意を

最近のわたしの標語。
もともとは「若さに敬意を払うべきだ」という、山崎ナオコーラの短編小説の一節からはじまる。

いつまでも最年少じゃないことぐらい分かってたつもりなのだけれど、なんだかぼんやり最近それを実感する。私より若い人が頑張っている。私より若い人が挑戦をしてい る。私にはあまり年下の知り合いはいないし知り合う機会もないんだけれど、とても素敵なことだし、仲良くしたいなって思う。たまに高校時代の後輩に会うこ とがあって、お喋りをしていて、私はエラソーなことを言ってしまっていないかと心配になることがある。でも、私は先輩の先輩風吹かしたエラソーな言葉が好 きだった。愛情持って1年2年しか違わない経験則で頭を使ってくれるのが嬉しかった。だから少しだけその様相を出しつつ、彼らの考えることやりたいことに 敬意を払っているつもりだ。私がなし得なかったことを彼らはいとも簡単にできる若さを持っている。

若さ、というのをひしひし感じるのは、 自分の母よりずっと年配の、もしかしたら祖母より上の女性と話すことが増えたからだと思う。大抵平日の昼間に温泉へ行くので、時間を持て余した年金生活の おばあちゃんや専業主婦などがよく見えるのだ。若者の活動時間に私は地方の温泉へ出向いてだらだらとお喋りをしたりしている。私の若さに敬意を払ってくれ る女性もいるし、若さを疎む女性もいる。大抵は「若いからいいね、なんでもできるね」と言われて終わるのだけれど、 この若さを理由にできることがどれだけ重要なことかと頭を引っ掻き続けてる。

温泉へ出向きおばちゃんおばあちゃんを見る度、他人事ではな い「老い」に馳せる。彼女達はコアラだったり子鹿だったりする。彼女達は何をするにもゆっくりしていて、私は自分のスピードの速さに気付く。キュンキュル 動く四肢も頭も、永遠に続くものではない。いつかはだらっと目覚めて昼下がり温泉にでも行くような平日が待っている。40年後か50年後か先の話であって も、その事実にはたと目覚めてしまったのだ。

だから、以前読んだ山崎ナオコーラの一節が、ずっと残ったままだった。 若さに敬意を。自分にはできないことを平気でやってのける若い人に敬意を。年輪を数えて若い芽を摘むことほど愚劣なことはないだろう。速度の違う生き物 に、なぜ自分の速度を押し付けることが善だと思うのだか。世代を越えた若い人とは、共通言語も共通文化も異なるものなのに。「若いからできる」は正しい。 「若いからできない」ことはない、多分。しっかり若い人に敬意を払える大人になりたいと強く思う。

他人に敬意を 、経験に敬意を。ここまで書くと付け足のようだけれど、私にとっては重要な課題で。人生の先輩女性たちの言葉はいつだって現実的で重くて、聞き流すことは できない。私は特別なんかではなくて、彼女たちが経験してきたようなことを経験する機会はこれからいくらでも待っているのだ。 

結局、自 分が自分がっていう自意識というか、独りよがりなプライドは超絶邪魔なものなんだと思う。自分より若い人は速度も言語も最新鋭で、人生の先輩が保有する経 験則は私にだって当てはまる普遍的なヒントで、自分以外の人間は自分とは違う生き方を選んでいる称えるべき勇者で。いつまでも驕っているとかっこ悪い。で も、自尊心は捨てちゃだめなあと思う。自分を卑下する人が1番かっこ悪かったりする。