女流作家と女性性


女流作家のエッセイを読み漁っている。
先月出会った方が「安野モヨコに憧れて」とか「さくらももこのエッセイが素晴らしくて」と何度も会話の途中に引き出していたことが、とても印象的だったのだ。

身近に「私にはないものこの子は持ってるな」「この子はいい彼女になるだろうな」というのはある。女優や歌手に「美人だなあ、生まれ変わったらこうなりたいな」というのもある。しかし、女流作家や女性文化人に対してはめっぽう食わず嫌いだった。

女性性を語らう女性、というものに抵抗があったのは思春期からだと思う。女性は「わかるわかる」と頷くのも頷かれるのも好きだ。「わかるわかる」が 荷を軽くする。もし女流作家の著書を手に取って開いてしまったら、「わかるわかる」という普遍的な女性性に、自分も当てはまっていることと向き合わなけれ ばいけない。

それは思春期の私にとって、とても自意識過剰で恥ずかしいことのように思えた。どこかの女性文化人が傲慢でわがままな女性性を声高に語り、それが世 の中で「わかるわかる」と頷かれる。愛読すればたちまち女性性を正当化し、女性として過剰になってしまうのでないか。そう思えてずっと手に取らずにいた。 男性の描く女性はいつだって可愛らしく愛らしく、自分(たち)とは別世界の生き物だったから、心苦しくなんてないのだ。

20代に入り、私はようやく女流作家・女性文化人の作品を手に取るようになる。山崎ナオコーラのエッセイは単行本で買ってしまった。角田光代のエッ セイは何度もtwitterで引用した。描かれる女性性は怠慢で気まぐれで、読み進めると御多分に漏れず「わかるわかる」とこぼす自分がいる。女性経験が 少なかったんだな、きっと。「わかるわかる」は正当化でも過剰でもなく、ただ経験の答え合わせだったんだな、きっと。

田口ランディは自著に「17歳の時、17歳までは少女で、18歳から大人の女だと思っていた」と書いていた。ああ、わかるわかる。そして唐突に、糸 がぷつんと切れたように、煩わしい渦に巻き込まれていくんですよね。この一文を14歳の時読んだって全然ピンと来なかっただろう、読まなくてよかった。

 

できればムカつかずに生きたい

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