手記

半年間の日本一周も、もうすぐ最後の1ヶ月を迎える。ひとりでここまでよくやって来たなあと自分自身を褒める日々だ。私の旅の仕方や生活状況などは、企画の都合上ほとんどオモテに出すことはない。終わったら全部吐き出してやろうと思っている。告発に近 く、暴露に近く、それでいて口元に手を当てるような。決して褒めたような生活ではないことは確かだ。書籍化の話がちらりとあって、実現するといいけれど、とごねる。

色んな事情があって旅に出た。温泉に関する国内旅行の相談は近畿を除き(あそこは国内でも随一の温泉貧国…!)、それなりに対応できそうである。湯はもちろん、風土や食やその他諸々、なんだかんだといいながら捉えて来たのだなあと。

5ヶ月間、生活水準を下げても、文化水準を下げることは許されなかった。観たい映画は映画館でチェックし、定期的に新しい音楽を取り入れないとさびしい。長らく東京での生活で疎かにしていたけれど元々の本の虫がまた脱皮して、読書はかかせないものになった。

私の好きなものは偏っている。深めたい、というのが1番の理由だ。音楽でいえば例えば私の兄はオリコン1位から順番に手に取るようなタイプだし、世間には「話題だから」と追うような人が結構いる(もちろんそれが悪だとは思わない。私がなれないだけで、その文化水準は時代の中心を意味していると思うから)。私は向こう5年は某夏フェスのタイムテーブルを見て「ここ行ったら次はここで〜」とかやりたい。現役の証だと考えている。

こだわりを持ちたい、というのは常々思うことだ。偏屈になると人格に傷がつくけれど、「なんでも聞くよ」「なんでも好きだよ」なんていうのはすごくつまらない。オリコン1位から順番に手に取るタイプは、その手に取る期間は世間の中心でもある。いつまでそれができるのだろうか。だんだん年をとって知らないことが増えていく中、知っていることが意識して生きてきた時代のことでしかないのなら、それは悲しいことじゃないのかな。

ここで肝に命じたいのは、好きなものは狭く、興味のあるものは広く、というところ。興味まで狭めたら偏屈になる。私の友人にもテリトリーの外れている人はたくさんいて、積極的に彼らに侵食していきたいなあと思っている。少しずつ大人になっていくにあたり思うことは、不可避の環境で知り合った人とは 嗜好を共有しないということだ。人付き合いにおいて嗜好は地雷である。ふいに出会った相手の嗜好に対して、自分はどれほど門戸を広げているか。それによるような気がする。

日本一周に出る前は1年はいいやと考え、半年休学にした。数週間前までそのつもりで、9月から復学しようと思っていた。でもやっぱり、諦め切れないものがある。うまくいくといいなあと、振り絞って恋文をしたためた。結果待ち。

私の美学のひとつに「良し悪しや好き嫌いは自分で決める」というのがある。その判断は経験が下す。世間がそう言っているから、なんてもう言いたくない。ヒッピーにも拗らせにもなりたくない。こういう時にインターネットは常々精神毒だなあと思う。なりたかったけどなれなかった人物像で溢れていてひどい 心傷だ。生き方なんてひとつなのになあ。出会ったこともないような人に嫉妬するくらい私は退屈なんだなあ。