王子のニトリ

初めて1人暮らしをした街は市ヶ谷だ。大学まで徒歩でいけるし内装もコンパクトで小奇麗な1Kで、わたしはほとほとその部屋を気に入っていた。

色んなものを実家から持って来たつもりだったが、何もかもないことに気付いた。最初の夜にお味噌汁を作り、おたまがないことに気付き、テーブルがないから床に置かなければいけない事実に向き合い、これはやばいということになった。

市ヶ谷に家具屋はない。ちょっと歩けば防衛省やら武道館やら皇居やらがある。そんなところに住んでしまったものだから、とにかく大掛かりな買い物は生活感のある街まで行かなければならなかった。スーパーだけがあっても生活にならないことをその時初めて知った。

南北線で何駅か郊外へ向かう方に、王子駅がある。どうやらそこにニトリがあるらしい。おたまはともかく、テーブルが欲しかった。床にお味噌汁をぶちまける自分が容易に想像できたから。

ニトリで選んだテーブルと座椅子と細々した色々を、数駅だから持って帰りますと言って担いで帰った。物干し竿は次の日でも良かったと今でも思う。当然浮き足立つわたしに通販や発送などの二文字はない。

9月。汗だくでテーブルやら座椅子やら物干し竿やら生活の細々したものを市ヶ谷に運ぶ。洗練されたビジネス街に生活感を持ち込む。どうしてそうなっ た、という視線を浴びる。わたしにもよくわからなかった。ただ自分でこれから生活を営まなきゃならない気持ちでいっぱいだった。

それから2年半かけて、わたしは10回ほど引越しをすることになる。当時の座椅子は実家のものになった。おたまやテーブルや物干し竿が生活に要ることや、最悪なくても生きていけることを知った。王子にはそれから随分後に、一度行ったきりだ。