「未来の生き方」にむせ返る

ふらっと書店に入った。なんとなく次に読む文庫を探しに。小さな書店だったので、一周巡るに時間を要しない。文庫コーナーには福山雅治が主演をつとめる新作夏映画のポスターが掲げられ、当然のごとく東野圭吾の著作がずらりと平積みしてあった。目新しいものはないなあ、と思ってちらりとビジネス書棚を 覗く。

堀江隆文氏の著書にはじまり、家入一真氏、本田直之氏、高城剛氏、イケダハヤト氏にちきりん氏に安藤美冬氏に云々云々、とにかくまあ、そういう感じのがぶわーっと並んでいた。タイトルは「ノマド」「未来」「次世代」「生き方」 「働き方」「起業」「フリーランス」などなどの、とにかくまあ、そういう感じのがぶわーっ、だった。

私はこのとき甲信越地方にある小さな街角の書店で、この現場を目撃した。スクランブル交差点に面した渋谷TSUTAYAの6階がこうでも全く驚かないのだけれど、というかだいぶ前からこんな感じだろうけれど、こんなところにもこの風が来ていたのか。

たぶん、「未来の生き方」 を意識している同世代は少なからずいると思う。なんとなくツイッターでフォローしてみたら、そういう生き方が流行っているらしい、と知る。カッコいいじゃない企業に囚われないとか、わかんないけど。本当のこと言えば辛くて大変そうじゃない就職活動とか、まだやってないけど。起業なんてピンと来ないけど、敷居低いみたいだし。きちんと勉強したわけでも流行りの本を読み尽くしたわけでもないのに、頭の中で選択肢として存在する。

(私は休学し1年ズレる身なのでかなり他人事だけど)漠然と考えていた時期が過ぎ、あっという間に就職活動に入るんだろうと思う。そういう「未来の生き方」を知っていた諸先輩も、喘ぎながら就職活動をこなしていた。新卒一括採用の大きな波に乗らずに、「未来の生き方」を選択した知り合いもほんのちょっとだけいる。

同世代で学生起業、 あるいは学生を辞めて(ならずに)起業している友人もいる。仕事に追われて大変そうだけれど、私なんかよりぐっと大人で社会や経済に対してアプローチをし ているのは事実だ。羨ましくあるのはもちろん、彼らの「未来の生き方」に懐疑的になる場面もないわけじゃない。ただしこれは自分にその踏ん切りもモチベーションもないからこそ、理解ができないだけだと思う。

「未来の生き方」市場に触れる度、むせ返る自分がいる。会社に入って仕事をして遅く まで働いたり理不尽な上司の叱責を喰らったりしながらお金を稼ぐことが、オールドファッションなんだそうだ。私はそういう大人になるのだと思っていた。社会人ってそういうことだと思っていた。でもなんか、違うらしい。新しい生き方にアップデートできるらしい。それは自分たち個人でスキルをつけて起業しちゃったり、遠い国や町に住んで会社に行かずに仕事できちゃったりするらしい。

社会に出たことがない故、「未来の生き方」に対して、目から鱗が落ちることがない。
私にはありがたみないから分からない。
私には夜遅くまで仕事したり上司の理不尽な叱責を受けた経験がない。
それでも未来はすぐそこに迫っていて、私は紛れも無く未来を生きる若者のひとりであって。

むしろ「未来の生き方」を知っていながら、旧式の生き方を踏襲することがなんかカッコ悪いように思えてくる。けれど、そうやって声高に「未来の生き方」を提唱する人って一握りだ。いやいや、一握りの生き方が10年後の常識を変えるとも聞く。旧式に縛られたくないという、確固たる嫌悪感すら自分にはない。ていうか同世代のほとんどは組織に組み込まれて社会の渦に流れ込んでいく。そうやって大多数を振りかざしたくなる、怖いから。

ひしめくビジネス書の本棚から吹く風が、強くて強くて、むせ返る。

と書いてみたけれど、私は正直「ノマド」や「起業家」になりたいとはぜーんぜん思っていない。それよりもやりたい仕事やなりたい大人像がある。それには会社に組み込まれて夜遅くまで働いて上司の叱責に耐えるであろう日々が待っている。「未来の生き方」に踏み込まない、オールドファッションな大人だ。10 年後には笑われてしまうかもしれない。未来側からしてみれば、こういう書き方をすると「そもそもやりたい仕事は既存の会社に入らなきゃできない の?」という話になっちゃう。未来を押し付けないでくれと思ったりするし、未来を定義付ける著名人が結局カッコ良く見えて憧れちゃったりもする。