小学校までの道順

近 所の公立小学校に通っていた。横浜の公立小学校だというのに1学年1クラスしかおらず、40人前後で形成されたコミュニティに毎日毎月毎年、6年間、同じ 教室にいた。今思えば気が狂いそうな環境だ。事実当時、その教室もクラスメイトも自分自身も担任も、少し狂っていたと思う。どの親もなぜ換気を促さなかっ たのだろうと、今になって考える。
決まって若い夫婦から生まれた子供が多く、横浜という土地柄もあってか、マセていたり屈折したりしている子がそ のコミュニティを牛耳っていた。残っている思い出は断片的で、悩ましいことも人並みにあったりしたけれど、それでも不登校という選択肢はとらないままにき ちんと卒業まで丘の上にある小学校へ通った。

子供の足で歩いて、20分ほどの距離だったと記憶している。よくある「集団登校」というのは私の学校にはなく、入学したての頃は3つ上の兄と一緒に通学していた。次第に兄との距離をとるようになってから、同じマンションに住む同い年の女の子と通うようになった。

小 学校までの道順というのは、いつ覚えるものなのだろう。毎朝兄が一緒にだったわけでもないから、1人で通学する日ももちろんあったはずだ。兄は誰の背中で 覚えたのだろう。6歳の息子娘を送り出すというのは、親にとっては身の切れる思いではないか。あの20分の通学路を滞りなく通学できると、親になれば信頼 できるものなんだろうか。ひとりっ子は?近所に友達がいなかったら?
確かに同じ小学校へ向かう近所の子が他にいるから、彼らについていけばいい。 地域のおばさんは横断歩道で黄色の旗を振り、私たちを守ってくれた。それでも不思議に思う、毎日幼稚園まで送り迎えをしてくれた母親不在のまま、私は何の 滞りもなく通えていたんだろうかと。不安じゃなかったんだろうか、6年間生きて来た地元は怖くなかったんだろうか。帰り道は?覚えていないから謎だらけ だ。しかし小学校までの道順は、今でもしっかり瞼にこびり付いている。

私は中学校へ入学した時、中学校がどこにあるかよく分かっていな かった。待ち合わせをしていた記憶もない。分からなかったから、迷うことも多かった。抜け道や裏道や遊び場を、2年生や3年生になってから知ったこともあ る。思い入れもなかったからか、今でも中学校までの道のりはシミュレーションできない。途中にあるファミリーマートから、記憶は一気に校門へ飛んでしまう のだ。

数年前、実家を出た兄宛に「タイムカプセルを開けよう」という手紙が届いた。そういうの、私は小学校でも中学校でもやらなかった気 がする。兄は仕事があるからと残念そうにもしなかった。地元というのはなぜか離れた途端、老いたつまらない町に思えてしまう。私の地元には今でも若い家族 が移り住み、学校までの道順を覚える子供がいることも、私は知らない。